
とまにちわ!
聖パウロ修道会は、その名の通り、聖パウロを模範とする修道会です。
ところが私は昔から聖パウロが少し苦手でした。こんなことを書いて大丈夫なのか分かりませんが、本当なので仕方ありません。
もちろん尊敬しています。むしろ尊敬しない方が難しいくらいです。新約聖書の大部分を書き、各地を旅し、キリスト教を広めました。いろいろな苦難に遭っても宣教を続けました。
私だったら途中で帰りたくなります。というか、一度くらいは本気で落ち込むと思います。
しかも頭がいい。手紙を読むと、それがよく分かります。議論が強い。論理も鋭いのです。読んでいるこちらが、「はい、その通りです」と言うしかないような勢いがあります。
時々、「そんな言い方しなくても……」と思うこともあります。ガラテヤ書を読んでいると、「パウロ、だいぶ怒っているな」と感じることがあります。私はどちらかというとすごく遠回しに言う方(察して欲しい方)なので、そのあたりも少し苦手なのかもしれません。
そして何より有名なのが、ダマスコ途上での回心です。復活したキリストに出会い、人生が大きく変わる。キリスト教の歴史の中でも、とても有名な場面です。
子どもの頃、私はこの話が少し苦手でした。正確に言うと、少しうらやましかったのだと思います。パウロには、自分の人生が変わった瞬間があります。「あの日から変わった」と言える出来事があります。
私にはそれがありません。信仰について振り返ろうとしても、「あれが転機だった」と思えるような出来事が思い浮かびません。神さまとの出会いを劇的に語れる人がいます。そういう話を聞くたびに、「自分には何もないなあ」と思っていました。

私が修道院に入ったのは中学生の頃です。でも、それも何か特別な出来事があったからではありません。もちろん、いろいろな出会いや出来事はありました。けれど、「ここで人生が変わった」と言える瞬間は思い浮かばないのです。流れに身を任せてきたというか。
なので、回心したという実感もありません。「あれが回心だったんだな」と振り返れる出来事があるわけでもありません。
正直なところ、今でもよく分かりません。ただ、よく分からないまま修道院にいます。気がつけば何十年もたっています。
動画を作るようになりました。YouTubeやポッドキャストも始めました。もし中学生の頃の自分に今の姿を見せたら、たぶん驚くと思います。
なので、最近は、回心にもいろいろあるのかもしれないと思うようになりました。パウロのように人生が大きく変わる人もいる。一方で、どこで変わったのか自分でもよく分からないまま、気がつけばずいぶん遠くまで来ている人もいる。
私はたぶん後者。「たぶん」と書いたのは、やはり自分でもよく分からないからです。
ちなみに、古い文献によると、パウロは背が低く、頭がはげていて、がに股だったそうです。それを知った時、なんだか急に現実味が出て、すごく親近感が湧きました。
そういうことで、今年もまた、パウロのことを考えています。